不安の正体は何?

 前回の記事で紹介したように、ひたすら呼吸を数えて雑念が出て来たら脇に置いて、また呼吸を数えることに戻る、ということの繰り返しが瞑想の基本中の基本です。

 散らかった部屋で目についたものを棚や箱にしまって、その次に目についた物を片付ける、ということをずっと繰り返していくと、やがて部屋が整頓されて使いやすくなります。瞑想もこれと同じような働きをします。

  ただし部屋と違ってなぜ頭の中が散らかっていくのかというと、理由はそれほど単純ではありません。今回はこの「脳の中を散らかしているもの」、すなわち「雑念」がなぜ出てくるのか、ざっくり大雑把にですが説明します。


 脳というのは無意識の状態でも勝手に動き続けているものです。以前にも説明した通り、おにぎり2個分のカロリーを消費するくらい大量のエネルギーを使います。そのため何をしていなくても疲れてしまうのです。
 この「脳が勝手に動く」状態ですが、ポジティブな考えをしているのであれば、幸福物質と呼ばれるもの(セロトニンドーパミンなど)が脳内で放出されて活力が湧いてくるので、何の問題もありません。
 ただし大抵の場合、「脳が勝手に動く」状態で浮かぶのは不安や恐怖心に基づいたネガティブな考えです。そのためエネルギーがみなぎってくるどころか疲れてしまいます。
 じつは心配事であったりやらなくてはならない事を思い浮かべるように、と脳が勝手に働いてしまうのは、私たち人間の祖先が野生動物であった頃の環境が影響しているのです。
 どういうことでしょうか?
 自然の中で狩猟採集生活を行っていた私たちの祖先は、木の実がとれずに飢え渇いたり、猛獣に襲われ殺されるかもしれない、というような常に危険と背中合わせの環境にいました。少しでも気を抜くと自分の生命さえ失いかねないので、猛獣と出くわしたり、水が干上がったりというような危機的な状況を常に想像し、どう対処していくかを考えなくてはならなかったのです。野生生活では、恐怖心に基づいた想像が必要だったというわけですね。
 祖先がそのような環境を生き抜いてきたため、ネガティヴな事を想像してストレスを自分にかけ続ける、という性質を私たち現代の人間は受け継いでいます。
 これが雑念が浮かんでしまう大きな理由の一つです。

 しかし、私たち現代人で野生生活のようなリスクを24時間いつでも抱えながら生きている人はまずいません(もし、このブログを自然の環境下で見ていたら、パソコンやスマホの光に向かってくる様々な節足動物に襲われる可能性がありますが、そんな状況にはいないですよね)。

 私たちの生きる文明社会では、大半の不安は生存することに対して必要以上に大きくなりすぎた妄想にすぎません

 かつてブッダは「不安とは妄想である」と言ったそうです。私は仏教徒ではありませんが、この言葉に同意します。

 雑念が湧くというのは、自分自身にアラートが働いているということですが、多くの場合、怯えて脳を疲れさせているだけなのです。そのことに気づくためにも瞑想はかなり有用な手段です。